煮干しの一押しVOCALOID曲

VOCALOIDの話題や気になった事を書こうと思います

高貴なレディなVOCALOID曲

こんにちは こんばんは 煮干しです。

 

 大雨、凄かったですね・・幸い自分の所は被害が無かったですが、今回の大雨で災害に遭われた方々は、本当にお気の毒ですね。車が水没している映像がネットやテレビで流れていて、自分が同じ目に遭ったら、立ち直るには、かなり時間がかかると思いますよ。もしも、ローンを組んでいる車が水没したらどうなるんですかね?、お金を払い続けるしかないんですかね?、いやー、他人事でもそんな状況があると思うと、気が滅入りますね・・それでは307曲目の初回とちょっとした物語をお送りしたいと思います。

 

まず始めに、この物語はフィクションです。物語の中に登場する個人名、団体名、会社名は架空の物であり実在する個人、団体、会社とは関係ありません。

 

※題名や挿絵にBing Image Creatorを使用しました

 

曲の紹介は下の方にあります!物語を飛ばしても構いません。

 

 

  1942年、東京に空襲が来るという噂をお父様が聞きつけて、万が一という事もあり、私たち家族は田舎の別宅に自主的に疎開をした。そして、翌年1943年、学徒勤労員が始まり、私は、疎開先の村の子達と一緒に、農作業や兵隊さんの使う、軍服を作る作業などをして過ごした。東京では何不自由無く暮らしていた私にとって、初めての労働ではあったが、同世代の子達と過ごす時間は、私にとって、とても優位意義な時間だった。村の子たちは素朴な子達ばかりで、東京の学友たちの様な、互いにけん制し合う必要も無いので気が楽だ。他愛もないお喋りをし、そして、勤労の合間に川遊びをして過ごす毎日。時間はあっという間に過ぎ去り、1944年、東京に空襲が始まる。学友たちの息災が気になったが、私には知る術がなく、ただ、ただ、与えられた仕事をこなすしかなかった。

 

 1945年、8月、うだるような暑さ、大人たちが浮足立っている。何かがあったに違いない。私たちは、相変わらず、兵隊さんの軍服の製作や農作業に勤しんでいたが、上司の兵隊さんが明日は休みと言って来た。珍しい事もあるもんだと、私たちは喜ぶ。しかし、その時の兵隊さんの笑顔に違和感があり、私は気になったが、友達と遊ぶうちに忘れてしまった。そして、翌日、私の屋敷に村人全員が押しかけてくる。二階の窓から、何事かと見ていたら、村人でごった返した庭の中で、誰かが手を振っている。親しい梅ちゃんだった。私は、急いで階段を降りて、梅ちゃんと合流すると、「あらまあ、椿ちゃんでぇねえの、これから何が始まるか知っとる?、男衆は何も教えてくれん」と梅ちゃんの隣にいた梅ちゃんのお婆ちゃんが私に尋ねてきた。「ごめんなさい、私も知りません・・」と私が答え、「椿ちゃんも知らないんだ・・」と梅ちゃんは不安そうに言う。何も知らされず困惑しながら待つ事、数分後。お父様が、紋付き袴姿でラジオを持って、屋敷から出て来る。そして、「皆の衆、よう集まった、これから、やんごとなきお方から、我々、日ノ本の民に、大事なお話があるそうじゃ、よう聞くように!」とお父様は言い、ラジオのスイッチを入れた。皆はシーンと静まり返り、数刻後、放送が始まる。やんごとなきお方の肉声に皆は驚き、そして、敗戦が決まった事が分かり、泣き崩れるもの、茫然自失で空を眺めるもの、様々だが、皆一応にショックを隠し切れない様子だった。

 

 敗戦が決まったが、私たちの人生はまだまだ先がある。生きなければならないのだ。しかし、敗戦直後は、皆、混乱していて、お父様も同様に、身の振り方を決めかねていた。そこで、とりあえず、お父様は、東京の自宅の様子を一人で見に行く。一週間ぐらいだろうか、お父様はようやく帰ってきて、東京の事や自宅の状態を母様と私に話してくれた。「東京は焼け野原で何も残ってない・・自宅も瓦礫の山だ」とお父様は寂しそうに語った。その後、お父様は、元々やっていた問屋の商いを再開したが、今もなお、配給制度は健在で、止む得ず、進駐軍を相手に商売をする事になる。お父様の行動に眉をひそめる者がいたが、生きる為には仕方がない。それからは、お父様が東京へ行くと、一月、二月帰らない日々が続き、四年の月日が流れる。そして、そんなある日、お父様が、久しぶりに東京から帰ってきて、すかさず、村の重鎮を屋敷に招き、応接間で何やら話し込んでいた。

 

 私は既に、学生ではなく、普通なら嫁に行かないといけない身分だが、幸い、お父様の商いは上々なお陰で、自由にやらせて貰っている。しかし、お客が来ると、お父様は最近、お母さまではなく、私をお茶出しに使う様になっていて、何やら企んでいる様だ。私は、お手伝いさんに用意してもらった、お茶が入ったお盆を受け取り、応接間に向かう。ドアをノックすると、中から「入れ」とお父様の声がした。私は応接間に入ると、顔見知りの、村の重鎮たちに挨拶して、お茶を置き、お盆を持って暫く様子を伺う事にする。私が一向に退出しない事に、村の重鎮の方々やお父様は特に気にすることなく、お父様が口を開く。「知っとるか、このビールが今や100円もするんじゃ!」とお父様が重鎮の方々に熱弁を振う。「わしの知り合いの伝手から聞いたんだがの、近々にな、酒類配給公団が解散するらしいんじゃ!これからは自由に酒が造れるんじゃ!この流れに乗り、先手を取って、大儲けしようや!」とお父様が村の重鎮の方々に言う。しかし、「大松さん、麦はええんだがな、ホップちゅう奴がビール造りに必要じゃろ、お前さんが何とかしてくれるんかい?」と村の重鎮の一人がお父様に尋ねる。すると、「大丈夫じゃ!ホップを生産している者と交渉しとる!交渉が決まり次第、この村に来て作り方をご教授してもうらう手筈になっとる!」とお父様は自信満々に答えた。「そうか、大松さんが言うんなら大丈夫じゃろ、わしらが、麦とホップを生産して、大松さんがビール工場を建てて、ビールを造るっちゅう事でええんか?」と村の別の村の重鎮がお父様に確認をする。すると、「そうじゃ、ビールの生産から販売はわしに任せい!」とお父様は自身の胸を叩き、村の重鎮に確約をした。

 

 翌月、多忙なお父様に変わり、私は北海道から来る、ホップ生産者でビール製造経験者の村山太郎さんを、四つ隣の村にある駅で待っていた。駅の改札口で待つ事一時間、汽車がやって来て、ぞろぞろと人が出て来ると、駅員が慣れた手さばきで改札鋏を、「かん、かん」と音を鳴らせながら、切符に切り込みを入れる。改札口から出て来る人の流れを静観していても、一向に待ち人らしき人は来ず、次の列車かな?と私が思った矢先、大きいリュックサックを背負った、私と同い年位の青年が出て来た。「あの・・村山太郎さんですか?」と私はキョロキョロと辺りを見回している彼に早速、声をかける。「そうです・・」と彼は歯切れが悪い受け答えをした。彼の態度に困惑した私は、「あの・・何ですか?」と彼に尋ね、それに対して彼は「ごめんなさい、こんな美しいお嬢さんが、迎えに来ることを予期してなくて・・あっ、村山太郎です」と頭をポリポリかきながら、自己紹介をした。そして、「美しい何て・・大松椿です」と私は顔を真っ赤にして名乗り返す。村の同世代の男性は山猿みたいなタイプばかりで、彼の様なインテリで顔立ちが整った男性に出会うのは初めてだ。「あっ、ゴホン、お車がありますので、それでお屋敷に向かいましょう」と私は気を取り直して、車で待機していた運転手さんに合図をし、彼の荷物をトランクに詰め込み、私と彼は後部座席に乗り込んだ。屋敷の向かう道中、両側が鮮やかな緑の大麦畑を走っている車の車内は誰も言葉を発する事は無く静かだった。彼は山の向うに見える入道雲を眺めていて、私は反対側の車窓の風景を眺め、時おり、彼の顔をチラチラ見て、空いている窓から流れ込む風に運ばれてくる男性の匂いにドキドキした。屋敷に着くと母様が出迎えて、長旅の疲れがあるのか、村山さん食事もそこそこにして客室に切り上げてしまい、私はしょんぼりする。村山さんは翌朝から、朝早く屋敷から出て、夜遅く帰り、食事を済ませて寝る毎日をしていて、私と接触するタイミングが皆無だった。

 

 時折、外で村山さんを見かける事があったが、村人と熱心に話しをして、何かを指導をしている感じで、私が割って入る雰囲気ではなかった。そんなある日、雨が続き、リビングで本を読んでいると、村山さんが来て、お手伝いさんにお茶を頼んだ。私はビックリして、本を読んでいる振りをして、本の端から覗くと、彼はこちらを見ている。そして、お手伝いさんからお茶を受け取り、私の隣に座ってきた。「あの・・何というか・・迎えに来てもらった時以来ですね」と彼は私に突然話しかけてくる。私は一瞬ビクッと体を揺らし、本を読んでいる姿勢は崩さず、「そ、そうですね」と短い言葉で返す。本で隠れた私の顔は汗ばんでいた。何でだろうか?別に男性が苦手という訳ではない。何故か彼がいると感情の様なものが高ぶって普通ではいられない。「雨が降ってくれて助かりましたよw、畑仕事はこういう時しか休めませんからね」と私が一人で勝手に混乱している最中に彼は言った。だからいるのか・・。「は、畑仕事大変なんですね・・」と私は一言返すのが精いっぱいで、気まずい沈黙が続き、彼のお茶をすする音だけがした。そして、「何の本を読んでいるんですか?」と彼は突然、私が読んでいた本をひょいと取り上げる。「あひゃ!?」と私は奇声を発してしまい、彼はそれにビックリして、本を落とす。「あっ・・ごめんなさい!」と彼は床に落ちた本を直ぐ取って、私に手渡し、逃げる様に自室の客間の方に向かう。顔の横顔は、私と同様に汗ばんで顔を赤く染めていて、頭をポリポリとかいている。彼の後ろ姿に私は微笑んだ。

 

 村は大忙しだった。大麦の生産を増やすため、畑を広げ、慣れないホップの栽培をし、戦後復興を目指し、村は一丸となって働いた。工場もようやく出来て、村山さんも今まで以上に忙しく駆けずり回っている。そして、困難を乗り越えて、様々な事が好転し始めた1952年、国産の大麦とホップを使い村の清い清水で作られた、大松ビールは完成した。コクがあり切れも良く、仕上がりが上々で、大手のビール会社の様な生産性は無いが、確実に発注を伸ばしていて、少数ながらも東京や大阪にも流通するようになる。ビールの商いは一応の成果が出て、お父様や村人たちは胸を撫で下ろし、今後のビール消費量の増加は誰の目にもを明らかで、ビール生産を軸にした村の発展に、皆、心を躍らせた。私はというと、相変わらず屋敷で変わらない毎日を過ごしていた。村全体が明るい雰囲気が包み、雲一つない、日本晴れの日、爽やかな午後を過ごしていた時、梅ちゃんが屋敷に遊びに来た事をお手伝いさんが知らせてくる。梅ちゃんは、村の重鎮の家に嫁ぎ、二児の母になっていた。昔の様に頻繁に会う事は出来なくなったが、暇を見つけては、私の屋敷に訪ねてくれた。数分後、ドアはノックせず開き、小さい男の子と女の子が飛び込んできて、私の自室にあるベットで飛び跳ねて遊び始める。梅ちゃんの子供たちだ。その姿に他人の子供ながら、愛おしく感じ、いつかは自分も子を設ける事を考えてしまう。「ごめんなさい!椿ちゃん!、ほれ!止めなさい!」と梅ちゃんは子供たちを叱る。梅ちゃんはすっかり母親が板につき、逞しさを感じさせた。

 

 子供たちは、自家製クッキー、オレンジジュースを与えると、食べるのに夢中になって静かになった。梅ちゃんは一心不乱に食べている我が子を優しい目で見ながら、紅茶を一口飲む。そして、私の方へ向き直り「椿ちゃん、村山さんの事だけどね・・神社の総代の早坂さんが、自分の一人娘との縁談を持ちかけているいるみたいだけど、良いの?」と梅ちゃんは、私には寝耳に水の話しをする。「えっ!?嘘?、本当なの?梅ちゃん?」と私は動揺しながら確認をした。「本当よ、結構有名な話よ」と梅ちゃんは答え、続けて「椿ちゃんもさ、もう年頃なんだから、まごまごしてないで早く自分から動かないと、親からあそこさ、嫁に行けと言われたら終わりだかんね」と経験則から語られるその言葉は重みがある。「うん・・分かってる」と私は答えるのが精いっぱいだった。それから、小一時間ばかし、お喋りをして、梅ちゃん達は家に帰り、私は、屋敷の窓から見える夕日を眺めながら黄昏ていると、お庭に仕事を終えて帰ってきた村山さんが現れた。彼は私に気が付くと、手を振って、何やら私に用がある様だ。リビングに向かうと彼はもういて、私に気が付くと、いつもと違う雰囲気で近づいてくる。「あ、あの、ビール工場の敷地に椿の木があるんですが、今年は実に見事に花を咲かせまして、これ・・あなたに差し上げたくて」と彼は言い、ピンク色で可愛らしい乙女椿を私に差し出した。私は彼から乙女椿を慎重に受け取り、それをよく見ると、何重にも重なったピンクの花びらがとても美しかった。初めて貰った異性からの贈り物に、私は感激して、「ありがとうございます!」とお礼を言う。すると彼は「あっ、大したものじゃないので、礼はいりません・・でも、喜んでくれて良かったです」と屈託のない笑顔を見せてくれた。その笑顔に私の胸はときめいたが、昼間の梅ちゃんの話しが蘇り、曇った顔になる。私の異変に彼は気付き「どうなされました?」と尋ねてきた。「あの・・お友達から聞いたのですが・・縁談の話があるとか、本当ですか?」と私は彼に尋ね返す。「参ったな、村の噂って本当に早いですねw、その話は本当です、でも断りました」と彼は答えてくれた。彼のその言葉に私は歓喜し、興奮気味になり、勢いで、「他に約束をしている人はいるんですか・」と彼に問い詰める。「そんな人はいません!、あ、いや、どうしよう、あの!、本当はもう少し、状況が整った時にしようかと思いましたが、僕と一緒になってくれませんか?」と彼は顔を真っ赤にし、右手で頭をポリポリかいて言った。彼からの突然の告白に私の顔も真っ赤になり、「少し時間をください」と言捨てて、自室に逃げる様に帰る。自室に帰ると、彼の告白の言葉が脳裏に何度も流れた。嬉しさと不安が絡み合い、複雑な気持ちだ。心はざわつき、部屋をくまの様にウロウロして、何気なく机の上に置いた乙女椿を見た、その瞬間。ドアを誰かがノックした。

 

 「何ですか?」と私がドア越しにいる人物に尋ねる。すると、ドアが開いて、お手伝いさんが入ってきた。お手伝いさんは軽く会釈すると「お嬢様、旦那様がお呼びです、応接室に来てください」と言う。お父様が?、何だろうか?、こんな時間に?。私は疑問を抱えながらお手伝いさんと共に、応接室に行くと、煙草をふかしながらソファーに腰かけたお父様がいる。「おお!、椿!、さあ、そこに座りなさい」といつもの調子とは違うお父様が私に席の付くように促した。私が座ると、お手伝いさんは会釈して去る。そして、「今日はな、お前に見て欲しいものが有るんだ」とお父様は言いながら、なにやら、茶色くて薄い冊子の様なものを二冊、私の前に出してきた。それを見た瞬間、私は悟った。これは縁談の話だ。梅ちゃんの嫁さ行けと言われたら終わりというセリフが蘇る。「さー、見てみろw、この男はな、大地主の息子で、お金に困る事は無いぞ」とお父様は、私から見て右側の方の冊子を開いて、妙に明るい感じで言い、更に「こっちの男はな、地方銀行の頭取の息子でな、将来有望だぞ」とお父様は残りの一冊を広げて言った。二冊のお見合い写真に写っていた男性たちは、経歴も上々、中々の男前で、拒否する理由は無いが、かといって、即断出来る訳でもない。「あの、お父様、少し熟慮する時間をください」と私はお父様に打診をした。「まあ、一生ものだからな、よく考えて決めなさい」とお父様は了承して、二冊のお見合い写真を私に差し出し、私はそれを受け取ると自室に帰った。自室の机に並べた二冊のお見合い写真と乙女椿。私の人生に三叉路の分かれ道が出来た。どうする?、女の人生は結婚で8割方、決まる。好意だけなら、断然、村山さんだが、結婚は好意だけでする事は出来ない。経済力だったら、他の二人は申し分ない。どうしよう・・。

 

 結局、一睡も寝ずに考えたが、答えは出なかった。それから、夏になり、お祭りの季節になる。私は梅ちゃん達と、祭りに参加していた。屋台が並び、人で賑わっていて、今日が特別な日だと感じる。祭囃子を耳にしながら、屋台が並ぶ通りを、梅ちゃん、そして、その子供たちと練り歩きくと、私の浴衣の袖を時折、子供たちが引っ張った。可愛らしい顔で上目遣いをされると、どうしても買い与えてしまう。祭りという特殊な空間で食べる焼きそばは美味しいのだろう。子供たちはモリモリと食べる。梅ちゃんはそれを見て、「甘やかさないでよね」とチクリと私に苦言を呈したが、やはり、可愛いのだろう、順調に育つ我が子達の姿を見ている梅ちゃんの顔は微笑んでいた。その後、私たちは小高い丘の上にある神社に行く。境内では神輿担ぎが終わり、氏子さん達は打ち上げをしていて、その中にお父様がいて、自社で作った、大松ビールを振舞っていた。ビールの匂いと、男衆の興奮して出した汗の臭いで充満していて、女の私たちがいて良い場所ではないと感じ、私たちは退散しようとした時、「椿さん!!」と誰かが私を呼んだ。声のする方を向くと、村山さんだった。告白されてから数か月、私は未だに答えを出せずにいる。そんな無礼者な私に、彼は変わらず声をかけてきて来るのは、本当に忍びない。梅ちゃんは気を利かせ、子供をつれて神社の社に行き、私たちは境内の端に行く。境内の端からは村が一望が出来た。村を眺めながら、「ごめんなさい・・告白の返事を返さなくて」と私が謝罪の言葉を口にする。それに対して彼は「気にしないで下さい、よく考るべきです」と私の行動を肯定してくれた。そんな彼の言葉を聞くと、後ろめたい気持ちになった。私は曇った顔を見られまいと、顔を背き、他の所へ目を移すと、神社に続く石段の小道には家族連れがぞろぞろと歩いていた。一家団欒で楽しそうな顔をしていて、その様子を見ていると、私の心は切ない思いがして、浴衣の袖をぎゅっと握る。すると、「家族ずれの姿を見ると、何だか焦燥感というか、複雑な気分に最近なるんですよね」と彼は言う。同じだ・・。私と同様な事を彼も思っている。そうだ、何が経済力だ!、私は馬鹿だ!、私が欲しいのは家族だ、打算何て関係ない、私を好きだと言っている男性が目の前にいる!。意を決した私は、「私・・家族が欲しいです、私の家族になってくれますか?」と心が思うままに言う。彼はビックリして頭をポリポリかきながら「あっ、喜んで、こちらこそ、お願いします」と言い、祭囃子の音がする中、私たちは手を繋ぎ、憧憬を実現する事を誓い合った。

 

 翌日、私と村山さんは応接間にいた。お父様は苦虫を嚙みつぶしたような顔して、お母さまは特に変わりはなく、私たちを認めている様子だった。「お嬢さんを僕に下さい!」と彼は再びお父様に頭を下げて許しを請う。そして、お父様は、「ふう」と短いため息をし、緩んだ顔で、「わしの面子を潰しおって・・分かった・・二人の婚姻を認めよう」と私たちが一緒になる事を許してくれてた。私と彼はお互いに顔を見合い、手と手を握り合って喜んだ。「太郎君、君はいずれ、我が大松酒造を継ぐことになる・・、これから、経営者のいろはを叩きこむので覚悟する様に!」とお父様は彼の肩を叩き鼓舞して、「はい!」と彼は決意を感じる力強い一言を返した。その年の暮れに私たちは祝言を挙げて、正式な夫婦になる。夫の彼は、お父様のカバン持ちになって、行動を共にし、経営者のいろはを学ぶ日々。東京や大阪に出張すると、1、2、週間は帰らい事がざらだった。1954年、初雪が降った日に待望の第一子、女の子が生まれた。名前を初雪と命名し、私たち家族は喜び、初孫にお父様はデレデレで、夫はますます仕事にのめり込んだ。翌年には第二子の男の子、弥助が生まれ、家督を継ぐ男子の誕生に、お父様は私に今までない位、褒めちぎってくれた。それからは、子育てに追われる毎日。時々、梅ちゃんが助言をしてくれたりして、本当に助かった。1962年、オリンピックが東京で開催される事が決まり、国中が沸いて、好景気になった年。子供たちはすくすく育ち、憎まれ口を叩くようになったが、とても愛おしい。大松酒造は好景気の波に乗って好調だった。ビール工場も一つから三つになり、大麦とホップを周辺の村々にも要請して生産をして貰った。ビールをいくら生産しても、片っ端から売れる状態が、1964年の東京オリンピック開催まで続き、大松家は莫大な富を築く。お父様は、その築いた富の一部を、村の役場や橋、学校の建て替えや道路整備に使い、国鉄に掛け合って、村に駅を作らせ、その翌年には村から街になり、大松家は隆盛を誇った。

 

 これからも、順調に行くと思われたが、1967年、お父様が鬼籍に入られて、半年後に後を追う様にお母さまも鬼籍に入ってから様子が変わる。一時期は存在を高めていた大松ビールであったが、大手ビール会社の資本力による販売攻勢に敵わず、三つあるビール工場は一つしか稼働しない状態まで追い詰められた。ビールは売れなくても、大麦やホップは買わなくてはならない。先代、お父様の契約がここに来て、大松酒造を窮地に立たせた。経営の再建の重圧は、大松酒造を引き継いだ夫の肩にのしかかり、苦しんでいる夫を見て、何もしてやれない、私の不甲斐なさを恨んだ。そんなある日、屋敷のリビングで娘の初雪とお喋りをする彼を見つけ、「無理しなくてもいいのよ、ダメだったら、東京で再出発しましょう!、私これでも東京育ちなのよw」と私は夫が晒されている重圧を少しでも軽くするため言う。すると、「ありがとう、でもね、僕にも意地があるんだよ、先代の社長から託されたこの大松酒造は絶対潰させない!、だから・・諦めた時、それは、僕が死ぬ時だ」と夫は決死の覚悟を私に表明した。その言葉を聞いた娘は押し黙り、私も何も言えず、彼が書斎に行くのを見送る。私は娘を強引に引き寄せ、もう、中等部に通っていて、そんな歳ではないが、膝に乗せて抱きしめ、思案をし始めた。どうしよう・・。夫を信じて待とうか?、それとも、説得して大松酒造を畳む事を提案しようか?、いや、夫を説得する自信が無い・・、じゃあ、何かいい案を私が考えるか?。人生にまたもや現れた三叉路・・答えが出ない。私が悩み苦しんでいると、「母様、梅おばさんに聞いたら?」と膝の上にいる、娘が突然提案してきた。そうだ、前の時も梅ちゃんが切っ掛けで、決断が出来たんだ・・たまに彼女の家をこちらから訪ねてみよう。翌日、私は梅ちゃんの家を訪ねる。昔ながらの農家の家で、私の屋敷と違って純日本家屋だが、土壁、柱をよく見ると良いものを使っていて、豪農の家だと感じた。私は玄関に行って声をかけると、梅ちゃんの声で返事が返ってくる。数秒すると、梅ちゃんが姿を現し、私が訪ねて来るのは珍しいので少し戸惑っているのが分かった。梅ちゃんに案内された部屋は真ん中に囲炉裏があり、綺麗な畳と床、私の屋敷で言うと、リビングみたいな場所だろうか。私は囲炉裏の前にある座布団に座らさせる。3月になり寒さの峠は過ぎたが、寒い事は変わりない。囲炉裏の前に座っていると、優しい暖かさに包まれた感じになり、私の心は安らいだ。

 

 梅ちゃんは奥から鉄瓶を持って来て囲炉裏に置き、「どうしたの?」と早速、私に尋ねた。「うん・・あのね、うちの会社、大松酒造が大変なの・・」と私は付き合って何十年になる親友に初めて弱音を吐く。「噂は本当だったんだね・・椿ちゃんはどうしたいの?」と梅ちゃんは大松酒造の内情をある程度は知っている様子だ。「分からない・・」と私は答えた。囲炉裏の炭で熱しられた鉄瓶から、ぐつぐつという音が僅かに聞こえ、沈黙が続く。そして、「おう!、帰ったぞ!」と誰かの声がして、どたどた豪快に音を立てながらこちらへ来る。現れたのは、梅ちゃんの旦那さんだった。梅ちゃんの旦那さんとは、一、二回程度しか話しをした事が無く、外であっても会釈するぐらいの関係で、ほぼ初対面と変わらない。「ありゃ、椿さんでないの、何かあった?」とやはり彼も、私がここへ来る事は余りないので、不穏な空気を感じる様だ。それから私は旦那さんに事情を話す、その間、鉄瓶から湯気が出てお湯が沸いた事を確認した梅ちゃんは、お湯を急須に入れ替えて、私たちにそれぞれお茶を振舞った。「ふーん・・、そりゃ大変だ、なるほどね・・大麦を何とかしないとダメか・・」と私の話しを聞いた旦那さんは、以外にも真剣に考え始めている。旦那さんは注がれたお茶を一口飲むと、「そうだ!息子が九州に勉強に行っているんだが、奴から聞いた話だと、焼酎の技術革新が凄いらしい、大麦なら焼酎に利用できるし、どうだ?」と旦那さんは提案をしてきた。技術的な事は分からいが、何か上手くいきそうな感じがする。「あの!その話を主人にして貰えないでしょうか?」と私は必至に頭を下げて懇願した。すると、「頭を上げて!、太郎君には俺からそれとなく言ってあげるから」と旦那さん私の勢いに押される形で承諾をし、何か光明の様なものを感じた私はお茶を一気飲みをする。それから、梅ちゃん夫妻とお互いの近況を話し、私は家路についた。

 

 約束通り、梅ちゃんの旦那さんは、夫に焼酎の話しをしたようで、夫は何やら忙しく動く回っていて、電話を掛けたり、本を読みふけったりしていた。1969年、大松酒造は、ビール工場を二つ潰して、焼酎製造工場を新設、並びに、日本人に人気が出始めたウイスキー蒸留所を開設し、更に、九州での学業が終わった、梅ちゃんの息子、五郎君を始めとした、農業大学を卒業した若手を数人採用し、大松酒造の開発担当に迎入れ、新体制で臨む。そこからの大松酒造は、冬の時代だった。中々進まない、麦焼酎ウイスキー開発。そこで、五郎君たち開発部の提案で、当座の開発費と維持費を稼ぐため、ホワイトリカーを売る事にした。ホワイトリカーを作るには糖蜜が必要なのだが、原材料のてん菜の生産地が、運よく夫の生まれ故郷の北海道で、知り合いの伝手で手に入り何とかなった。大松ビールとホワイトリカーの売り上げでギリギリの経営をしながら、臥薪嘗胆して数年後。1977年、長年の開発研究が実り、遂に大松酒造から、麦焼酎の、黄金の季節、ウイスキーの、おいらのウイスキーが出来上がり市場に出す事になる。売れ行きはボチボチで、絶頂期の大松ビール程の勢いはなかったが、夫や五郎君たち若手の必死の営業もあり、徐々に売れ行きは伸びていた。1980年、焼酎ブームが到来。大松酒造の黄金の季節の売れ行きは好調で、業績は改善され、夫と私は共に喜びを分かち合う。お互い、子育てと会社経営がひと段落して、自由な時間ができた事もあり、私は夫に小旅行を提案した。夫は快諾し、夫婦になって始めての2人だけの旅行をする事になった。

 

 新緑が美しい5月、国産の赤いオープンカーで山道を走る。夫が車が好きな事をこの歳になって始めて知った。今まで子育てに忙殺されて、個人的な会話をあまりしてこなかったので、夫の知らない側面を見れて嬉しい。車内で久しぶりの男女の会話は弾み、あっという間に目的地に着く。山間部の湖の辺りにあるオーベルジュ(宿泊できるレストラン)だ。この目的地は夫が決めたので、勝手を知らない私は夫の後を歩き、受付でチェックイン済まし、湖に沿ってある、ハイキングコース2人をで歩き、帰る頃には夕方になっていた。部屋に帰り、シャワーを浴びて身支度を済ませ、夕食を食べに一階のダイニングに向かう。ダイニングは薄暗くて、ムードがあり、テーブルにはそれぞれランプが置かれている。私たちは席につき、夫が少しウェイター兼コンシェルジュの方と話し、卒なくオーダーした。コンシェルジュの方とは知り合いの様だ。気になった私は「ここって、あなたの知り合いなの店なの?」と夫に尋ねた。「知り合いってゆうか、麦焼酎、黄金の季節の売り込み営業を東京でしていた時ね・・全く契約出来なくて途方に暮れててね、BARにふらっと入った時、ここのオーナーと偶然に知り合ったんだよ」と彼は遠い目をして言う。「それで?」と私は夫から仕事の話をあまり聞いたことがないので続きを催促する。「たまたま、隣にいてね、意気投合して、それならうちの店で使うって言ってくれたんだけど、何の店ですか?って聞いたんだよ」と彼は私から催促されたのが嬉しかったのか、演技かがった調子で更に話は続き、「聞いたら、有名な高級オーベルジュじゃないか、だからね、うちが扱っているのは安酒の麦焼酎ですって言ったらね、そんな事は関係無い、僕の持っている試供品を出せって言うんだ」と言った。「試供品を出してどうなったの?」と私はワクワクしながら尋ねる。「試供品を出したら、バーテンダーさんがグラスを沢山出したんだよ、僕は困惑しながら事態を静観していたら、彼がグラスの全てに少しずつ入れてね、皆さん飲んでみてくださいって配り始めたんだ!」と彼は興奮気味に言い、そして「彼の言葉を聞いたBARにいたお客さんが次々とグラスを取ってね、彼を含めたお客様さん達が一斉に飲むと、どうですか?って彼が聞くんだよ、美味いってお客さん達が次々と言ってくれてね、これがあなたが作った麦焼酎の正体です!安酒ではないって、最後に彼が言ってくれて、僕は嬉しかったよ」と言い終わる。そして、先ほどのコンシェルジュさんが食前酒としてワイングラスに入った何かを私たちの前に置く。「飲んでみて」と彼が勧めて来たので、素直に従って飲む。それは黄金の季節だった。

 

 工場で飲むより格段に美味しく感じる。「美味しいでしょ?、雰囲気も大切なんだよね・・話しの続きだけどね、もっと君は自分の商品に自信を持った方がいい、これからは、うちのオーベルジュに使わせてもらうよって、彼が言ってくれたお陰で、営業しているとかかってくる重圧が軽くなって、それからは卑屈にならず積極的売り込む事ができる様になったよ・・ごめん、喋りすぎたね」と彼は少しバツが悪いのか頭をポリポリかく。年をとっても変わらない癖、愛おしい。「そんな事はないわ、面白い話だったわ」と私が褒める。すると、「ありがとう・・あのさ、僕はね・・自分は器用な人間だと思ってたんだよ、でも、蓋を開けたらこの様で、君には不安な思いばっかりさせて、ごめん」と彼は言った。私はすかさず「私の方こそ、大松酒造をあなた1人に押し付けてごめんなさい・・」と返す。そして、お互いを見合い、笑ってしまう。「まあ、これからもよろしく!」と彼はワイングラスを掲げ、「こちらこそ」と私もワイングラスを掲げ、私たちはこれからも添い遂げる事を誓った。

 

 

  今回ご紹介する曲は、作詞作曲をKanariaさん、イラストをLAMさん、デザインを雷雷公社さん、歌い手はメグッポイドさんよる、QUEENです。

 

 今回はいつもの違う形態で解釈したいと思います。他のボカロ曲の解釈している方々を拝見すると、フランス革命時のマリー・アントワネットと解釈しているのが大半で、それではつまらないと思いまして、自分はわざと穿った解釈をしたいと思います。

 

 本曲は、恐らくですが、英語の造語と少し違う解釈の英語を組み合わせた歌詞が特徴です。

英語の造語の例を挙げると

 ライバイ=ライ(lie)嘘の意+バイ(Bai)バイセクシャルを略したバイの、二つ、又は両方の意

つまり・・二つの嘘と解釈できる、三つ、一つには罪はないという歌詞の部分を二つは嘘で一つは真実という解釈をすれば符合します。

 

 マイマイ マイライフ=mymymylife=三つの人生を意味する英語の造語。

つまり・・曲の主人公は三択を迫られている。

 

次は造語+解釈を崩した英語の例を挙げると

 ランベリック=ランべ、ramble(とりとめない)+リック、lic(語尾の接尾辞、例・エンジェリック、angelic・・天使の様なの意)

 

 つまり、ランベリックは取り留めない様なとなり、これでは意味が分からないので、取り留めないという言葉は、まとまりがない様子や支離滅裂を表す言葉、自分の意見がまとまらない様子をお嬢様言葉の日常会話に変換すると・・どうしましょうとなる。

 

ランベリック ランべYOU ランベリックは、どうしましょう、あなたに‥どうしましょう、どうしましょうという曲の主人公が迷い悩んでいる事を表現している

 

 これらを総合して解釈すると、退屈な社交界の、踊りたくない殿方と踊る毎日。私に二つの縁談が来た。でも、私には意中の彼がいる・・。人生に三つの渡れ道が出来た、その内二つには愛が無い。一つには愛がある。駆け落ちでもしようか?でも、でも待って!愛の先には何が残るの?どうしましょう、あなたに・・いやいや待って!どうしましょう、どうしましょう。このままでは他人に人生を決められてしまうわ・・それだけは嫌!、ああ、どうしましょう、従者から呼び出しの知らせが来たわ、もう時間切れ、私は運命に負けたわ。

 

 はいw、いかがでしたでしょうか?強引を通り越えて、電波な解釈をしてしまいましたが、後悔は無いですw

 

 題名のQUEENは女王の意味で、曲の物語に登場する女性は高貴な方と示唆していると意味合いだと思います。

 


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 前回の酔いどれ知らずの時も、そうでしたが、解釈好きの性を刺激するというか、妙な世界観が浮かんできて、非常に楽しめますね。

 

 本曲、QUEENは、曲中に流れる謎の歌詞が、聴き心地がよくて、意味が分からなくても十分魅力的な、ポテンシャルが高い、素晴らしい曲ですので是非!本動画をし緒して聴いてみて下さい。

 

お借りしたMMD 

Tda様より

Tda初音ミクV4XVer1.00

ニコニコ大百科様より

 

メグッポイド