煮干しの一押しVOCALOID曲

VOCALOIDの話題や気になった事を書こうと思います

愛は必ず残るVOCALOID曲

こんにちは こんばんは 煮干しです

 

 内閣総理大臣岸田文雄氏が遂にウクライナ入りをして、ウクライナ大統領ウォロディミル・ゼレンスキー氏と会談を果たしましたね。今回のウクライナ入りの内容に対して個人的に注目しているのは必勝祈願のしゃもじです。ウクライナが勝つことをお祈りする、つまり日本国の立ち位置と考え方を明確にした事により、中立よりの立ち位置を脱却して本格的に対立する意思表明だと自分は思いました。日本としてもウクライナに対してのロシアの一連の動きは受け入れる事は出来ませんので、選択の余地は無いのですが、これによって先週に書きましたが、外交的な応酬の中に更に加わる事は必至で、ロシアサイドから何らかの報復が予想されます。件(くだん)のしゃもじは広島県・宮島にある厳島神社の縁起物で、更に日露戦争時代には兵士達がしゃもじを奉納したという歴史的な背景もあり、そして、五月に開催される、G7サミットの開催地でもあるという事が、何らかの前触れに見えて仕方がないです。それでは296曲目の紹介をしたいと思います。(物語というか怪文書は飛ばしても結構ですw)

 

 ます始めに、この物語はフィクションです。物語の中に登場する個人名、団体名、会社名は架空の物であり実在する個人、団体、会社は関係ありません

 

 春になり、気温も暖かくなって、私は縁側でラベルに竜姫と書かれた清酒を庭の桜を見ながら、一献を傾けて、白瀬家での日々を思い出していた。特に印象深いのは桜が咲いている季節についた嘘から始まった出来事だ。2001年、私、佐藤正一は齢(よわい)59、定年退職目前の白瀬家に仕える運転手件、雑務をこなす、しがない男だ。今日も旦那様の御令孫(ごうれいそん)であらせられる、京香お嬢さまを迎えに学校まで車を走らせた。学校に着くと桜が咲き誇り、卒業と入学の季節を思わせた。校門を通り抜けて、学校関係者専用の駐車場にある、白瀬家専用の駐車場に、目鼻立ちが整った、セーラー服の少女が、腰の辺りまで伸びたさっらとしてしなやかな黒髪を、風でなびかせながら立っていた。その少女こそ、白瀬家、ご令嬢、京香お嬢様であらせられる。私は車を急いで降りると、「お嬢様!お待たせしました、こちらへどうぞ」と後部ドアを開けると、お嬢様は黙って車にお乗りなられた。私は、挟まないように目視して安全を確認すると、静かにドアを閉め、運転席に戻った。「それでは、お屋敷に参ります」と私がお嬢様に伝えると「よろしくお願いします」とお嬢様は言い終え、景色を見始めた。

 

 お屋敷に向かって、数分位、車を走らせ、信号待ちをしてる時だった。「佐藤さん、公園の駐車場に寄って下さらない?」とお嬢様が突然仰った。「公園の駐車場ですか?承知しました」と私は理由も聞かず了承して、急遽進路を変更し、公園の駐車場に向かい駐車した。トイレですか?なんて、年頃の女の子に聞ける訳もなく、私は「お嬢様、お外にお出になられますか?」とお嬢様に尋ねた。「いいえ、結構です、このまま待機してください」とお嬢様はお答えになられ、某フランス有名ブランド監修の学校指定カバンからオペラグラスを出した。公園の駐車場から歩道を挟んだ道路で、道路工事をやっていた。お嬢様はその道路工事の現場を熱心に見られていた。「無いですね・・」とお嬢様はぽつりとこぼされた。そして、ルームミラー越しに私を見られて「佐藤さん、御爺様とお年は近いですよね?」とお嬢様がお尋ねしてきた。「旦那様とですか?はい、同じぐらいと存じます」と私が答える。

 

 「そう、なら知っていますよね、ゲバ棒って何ですか?」とお嬢様、いや、今どきの若者からは絶対に出ない言葉が可憐なお口から出された。「ゲ、ゲバ棒ですか?」私はそう応えると、かれこれ30年前位に同じセリフを言われた場面を思い出した。ゲバ棒、ゲバルト棒の略、ドイツ語で暴力を表す言葉だ。1960年、私が若くて血気盛んな頃、大学で安保闘争が起きた。世間の流れに疑問を抱く事なく、私は学生運動に夢中になった。その時、現場で使われた角材などを、武力、暴力で打破する武器、ゲバ棒と呼んでいた。私が大学を卒業する頃には沈静化して、まるで憑き物がとれたように私も興味が無くなった。それから五年後ぐらいに業務中に私の肩を当時の上司がたたき「ゲバ棒って何ですか?」とニヤニヤしながら尋ねてきて、程なく私は路頭に迷った。

 

 大学の頃に軽い気持ちで参加した活動が、後の私を破滅させた。捨てる神あれば、拾う神がある。偶然に飲み屋で隣にいた若き日の旦那様に、経緯をお酒の力を借りて告白したら、同情か哀れみか私を雇い入れてくれた。「佐藤さん?佐藤さん!」とお嬢様の掛け声で私は、はっとした。しまった・・過去のトラウマが蘇ったおかげで思考停止状態になってしまった。「もう!おボケになるのは早いですよ!」とぷん、ぷんと怒る振りをしておどけるられるお嬢様に対して、「ははっ、すいません」と私は、軽く謝罪をしながら気を取り直して「お嬢様、どうしてゲバ棒をお知りになられたいのですか?よろしかったら、経緯を私に教えて下さい」とお嬢様に尋ねた。「それはですね・・先日、ワタクシはお暇でしたので、我が家の歴史を紐解こうと、家族のアルバムを見ていたのです、御爺様の二十歳ぐらいのアルバムのページに差し掛かった時に、大学の卒業お写真にお写真の一部がはみ出してまして、それをアルバムから取り出したら、若き御爺様達がヘルメットを被って、手ぬぐいの様なもので、お口を隠している集合写真でしたの」と経緯の一部をお嬢様が言った。

 

 旦那様が私と同じ活動していたのは初耳だったが、あの当時の空気と熱気を知っている者として、特段驚く事ではなかった。「それで?」と私は続きをお嬢様に促すと「御爺様にお写真を見せて、これは何ですか?と、ワタクシがお尋ねしたら、御爺様は少し困惑なされて、道路工事のアルバイトの集合写真だと仰ったんです、それで、私は皆さんがお持ちになさっている棒は何に使うんですか?とお尋ねしたら、ゲバ棒は・・と少し言いかけてお前は知らなく良いと仰ると、お写真を取り上げられてしまったんです、ワタクシは、ゲバ棒が気になって、気になって夜も眠れないんです」とお嬢様が経緯を全て話された。私は一通りの話を聞いて、同志として、路頭に迷っている所を救ってくれた恩人として、お嬢様を真実から遠ざけようと決意した。

 

 「お嬢様、経緯は分かりました、では、お答えしましょう」と私が言うと「ゲバ棒は何なんですか?」とキラキラした目でお嬢様が私を見られた。「旦那様がアルバイトをしていた1960年頃は丁度、マイカーブームが起こりまして、急激に自動車が増えてきた時代でした、道路工事をする時に交通整理をする必要になったのです、その時に使われたのがゲバ棒です!」と言い終えると「そうなんですね!これでぐっすり眠れそうです、あら?でも・・ゲバ棒のゲバって意味は何ですか?」といったん納得しかかったお嬢様が私に質問をなされた「流石、お嬢様!いい所にお目をお付けられましたね、当初は現場社が卸している交通誘導棒、それを現場棒と言われましたが職人の間でゲバと略されて、ゲバ棒と呼ばれようになりました」と私が答えると「それで?それで?」とお嬢様がお催促なされたので「後に現場社がゲバ棒を商標登録しまして、正式名称がゲバ棒になったんです」と私が若干強引な嘘を言い終わると「現場棒がゲバ棒に!何てことでしょう・・目から鱗の思いです」とお嬢様は瞳を閉じて手を胸に抑えながら感動なされていたが、純粋さを利用したようで私は罪悪感を感じた。

 

 「納得なされた様で何よりです、さっ、お屋敷に帰りましょう」と私がエンジンを掛けようとしたら「ちょっと 待ってください!」とお嬢様が待ったをおかけになった。(ぎくっ、やはり話が強引だったか?)と私は焦った。お嬢様は窓にかぶりつくようになされて外を見られた「あれはゲバ棒ではありません、確か、誘導灯という名前の道具です!お友達の鳳蝶(アゲハ)さんが、夜見るとピカピカして綺麗だと仰ってました!」と言われている、お嬢様の目線の先には、休憩から帰ってきた交通誘導員が自動車を誘導していた。なんだかキャバクラの源氏名見たいなお嬢様のお学友に、私の嘘が崩されようとしていたが、ここで怯む訳にはいかなかった。私は何とか起死回生の案を編み出すために、辺りをキョロキョロと見まわすとブルドーザーに目が止まった。

 

 「さすが旦那様のお孫様であられるお嬢様は聡明で有られますね」と私がほめると「やっぱり、まだ何かあるんですね?」とワクワクしながらお嬢様がお聞きになった「それではあちらのブルドーザーを見て下さい」と私がブルドーザーを指すと「あの重機が何ですか?」とお嬢様がブルドーザーを凝視なされた。「ブルドーザの車輪部分の所は何というのかご存じですか?」と私が問題を振ると「ワームクローラです」とお嬢様が即答なされた。「違います」と私が無慈悲に誤りを指摘すると「そんな訳ないですよ!あれは確かにワームクローラーです」と尚も、お嬢様は間違いをお認めになられなかったが、私は構わず「正解は国内重機メーカー・長門製の無限軌道です」と答えを告げると「????」とお嬢様が困惑なされていた。

 

 「ワームクローラーとはA国に本拠地を置くワーム社、通称WAMの無限軌道の商品名です、商標登録されているので他の会社はワームクローラーを名乗る事は出来ないのですよ」と私が答えの理由を述べると「そうなんですね・・それは興味深いですが、ゲバ棒と何の関係があるんですか?」とお嬢様は感心しつつも質問を投げられた。私は、お嬢様の質問に答えるべく頭をフル回転して口を開いた「ビジネスというのは切磋琢磨、常にしのぎを削る世界でございます、時は1980年代、バブル景気に入り、ライフサイクルが変わり、夜間でも交通量が劇的に増えて、夜の交通誘導をする機会が現場で増えて参りました。これまで一強だったゲバ棒ですが、夜間は見えにくいという弱点がありました。それを好機と捉えた複数の会社がありまして、光るゲバ棒に開発競争が始まり、それらが一斉に世に出ると、現場のシェアは光るゲバ棒が席巻しました」と我ながらよくペラペラと作り話が出てくるなと、感心していると「げ、現場社はどうしました?」と心配そうにお嬢様がお尋ねされたので「残念ながら・・ビジネスの世界は非常なんですよお嬢様、時代の流れに乗れない会社は消えゆく運命です。こうして、私とお嬢様が話している間にもつぶれている会社があるんですよ」と私が諭すように話すと「悲しいですね・・・」とお嬢様は本当に今にも泣きだされそうな顔で呟いた。

 

 「話は戻りますが、現場社は倒産して、保有していた知的財産、つまりゲバ棒の商標登録は破産管財人の手によって売買されて、ある人の手にわたりました。どうも、そのある人とは質の悪い人だったのでございます。ゲバ棒の商標を法外な値段を提示してきまして、当初は複数の会社が買い取りに向けて動いていましたが、皆、断念しました。ゲバ棒という商標登録は現在でもその人の手にありまして、複数あるゲバ棒を出している会社はゲバ棒と言う名称は使えず、一般名称の誘導灯を使うようになったのですよ」と私の作り話は完成した。「ワームクローラーの話はここで繋がるんですね!佐藤さんがこんなに博識だったなんて知りませんでした!これからも指導ご鞭撻の程よろしくお願いします」と私に羨望の目を向けられたが心は張り裂けそうだった。

 

 納得なされたお嬢様は、桜並木を見て帰りたいと仰るので、私は近郊の桜並木が綺麗な道路に向かった。桜並木がそれは豪華絢爛だった。近年、稀にみる見事な開花にお嬢様は、はしゃがれ、喜ばれ、私自身も見事な桜の前に微笑んだ。桜並木を通り過ぎて、数分後・・・お屋敷に近づいて来た時にお嬢様は「よしっ」と決心の様な言葉を発されていたが私は特に気を留めなかった。お屋敷の門をくぐり、玄関の前に到着すると、白髪混じりでオールバック、髭を貯えて(たくわえて)、グレーのジャケットに白と茶色のタータンチェックのベストに白いシャツ、グレーのスラックスに茶色の革靴を履いた初老の男性が立っていた。その方は、白瀬権蔵、私が仕えているその人であられた。旦那様は丁度、所用で何処かへ行かれる様子だった。私が車を降りて後部ドアを開ける前に、お嬢様が自らドアを開けられて旦那様の所へ駆け寄られた。「御爺様!ゲバ棒の商標登録を買ってください!皆さん、困っていらっしゃいます!白瀬家の財力をもってすれば容易いはずです!どうか!」と私の話を真に受けたお嬢様は旦那様に懇願なされた。

 

 お嬢様は猪突猛進タイプで一度そうだと思うと、突っ走るお人だったのをすっかり忘れていた・・私の良かれと思った嘘が裏目に出て、旦那様の触れられたくない過去に関わる事が日の目に出てしまうかもしれない状況を招いてしまった。これは最悪解雇になるだろうと、半ばあきらめて覚悟しながら、事の経緯を嬢様が旦那様に説明なされているのを眺めた。旦那様は私を一瞥(いちべつ)なさると「それは無理だな京香」と仰った。それはそうだろう、私の作り話であるので、存在しない商標を買う事は出来ない。お嬢様はそれでも食い下がらず「何故ですか?御爺様!」と迫られた。「それは・・ゲバ棒の商標登録は私が所有しているからだ」と旦那様が信じられない事を仰った。私とお嬢様は理由は違えど共に「えっ!?」と驚愕した。「お、御爺様が?本当なんですか?」と少し顔を赤くしてお嬢様が旦那様を問い詰められた。

 

 「京香、よく聞きなさい、商標を売る事は出来ないのだよ。A国にもゲバ棒に似たものが有るのだが、どちらが最初に使っていたか、権利がどちらにあるか、日本とA国で争いになったのだ。そして、WTOに提訴する寸前まで行ったのだよ。当時の時の総理がA国と事を構える事を避けるために白瀬家の当主だった私に白羽の矢がっ立ったのだ。私が強引に商標を買い取り、法外な値段を吹っ掛ける事によって、商標が世に出るが無くなってゲバ棒の国際問題は沈静化したのだよ」と旦那様が私に負けず劣らずな作り話を披露なされた。「そうでしたの・・」とお嬢様が感心しておられると「京香、政治の話はまだお前には早い、大人になっら詳しく聞かせよう、早く着替えて手を洗ってダイニングに行きなさい、お前が好きなフルーツパフェがあるぞ」と優しい笑顔で旦那様がお嬢様に語り掛けると「約束ですよ!御爺様!」とお嬢様は笑顔でお返しになられて、黒髪をなびかせながら屋敷の中へ走り去られた。

 

 「さて、佐藤、私に付き合え」と旦那様が自ら車の後部ドアを開けて後部座席に乗られた。私はこれから解雇を通達される事を確信しながら、運転席に座ると、「ど、どちらへ?」と行先を尋ねた。旦那様がご指定なされた行先は、都内某所の白瀬家所有の物件だった。物件の駐車場に止めると旦那様は自らドアを開けて降りられて「ついてこい」と私に仰った。旦那様の後に続いて行くと労働者御用達の飲み屋街の奥にある居酒屋だった。店に入ると「二名だ、適当に座るぞ。後、いつもの酒だ」と旦那様が店主にお話しかけられると「いらっしゃい!お連れがいるなんて、珍しいですね。お好きにどうぞ!」と店主が返してきた。旦那様はこの店は初めてではなく常連の様だった。私達は奥の座敷に座ると、旦那様がお品書きを見ながら「適当に頼むぞ」と仰ったので「はい・・それでいいです」と私は恐縮しながら応えた。

 

 「お通しです、いつものお酒です」と店主が言って、私達のテーブルに煮物と枝豆を置いてから、升(ます)を出して、竜姫と書かれた清酒を、なみなみ注いで一升瓶を置いた。「江戸前を適当に頼む」と旦那様は手短に店主に注文なさると「今日は活きが良いものが手に入りましたので、楽しみにしてください!」と店主は注文を承り去った。私は旦那様と初めてのサシ飲みに緊張をしていた。私の状態を知ってか知らずか「まずは飲んでみろ、T県の地酒であまり有名ではないが結構いけるぞ」と旦那様が勧めてこられた。私は升(ます)を口元に持って行き、「頂きます」と言うと升(ます)の中に、なみなみある清酒をすすって飲んだ。口の中に、ほのかな甘みが広がり、すっきりとした清涼感があって美味かった。「どうだ?」と旦那様がお尋ねなさられたで「凄く美味しいです!」と私が応えると「そうか、良かった」と旦那様は笑みを浮かばれた。

 

 暫く沈黙が続き、黙々とお酒を味わっていると、「お前・・ベンタツだろ?」と旦那様がひどく懐かしい名前を突然に仰ってこられた。ベンタツ、それは私が大学生時代のあだ名である。私は弁が非常に立った男だった。学生運動の幹部たちはそれに目を付けて、私に幹部が演説するための代筆を任された。来る日も、来る日も、幹部連中の演説を代筆していたお陰で、嘘、本当、問わず短時間に文章を作成出来るようになってしまった。お嬢様を言い包められたのはそのためだった。「もう、わかっていると思うが、私もあの頃に学生運動を勤しんでいたんだ。お前は知らないだろうが、お前が代筆した文書を使って、何回か演説したんだぞ」と旦那様が驚愕の真実を仰ってきた。私が作成した文書は誰が使ったかは私には知らされる事は無かった。私が知らされた真実に困惑していると「あの頃は若かった・・ただ、闇雲に突っ走る事しか考えられなかった・・何か、別の方法が有ったんじゃないかと今でも思う・・」と旦那様が更に仰った告白に対して「私も一緒ですよ、あの頃の熱気にあてられた若者は、同じような感想を持っていると思いますよ」と私は賛同して、懐かしい気持ちになった。

 

 「何の因果か、孫娘にあの写真を見せられた時には、複雑な気持ちになったよ、京香はこれから大人になって様々な事知った過程で、我々が付いた嘘を知る事になるだろう・・その時にあの子がどの様な行動に出るかは分からないが私は受け入れようと思う・・」と旦那様が切ない表情で仰るのを見て「その時はこの不肖、佐藤正一も御一緒にお嬢様に謝罪をします!」と私が言うと「ありがたいが、その時、お前は定年退職していないだろ」と苦笑いしながら仰った。私は解雇されるものと思っていたが旦那様にその気は無いと分かって、気分が多少ほぐれた所に店主がやって来て「江戸前です」と様々な刺身が乗っていた大皿を私達の間に置き、これは当店のサービスですと小皿に乗った刺身を私と旦那様、それぞれ、二人の前に置いた。「これは鯉か?懐かしいな!お前も食べて見ろ、脂がのって美味だぞ!」と珍しく興奮なされて「いいか?鯉は淡水魚だから寄生虫がいるかもしれない、こうやって醤油とワサビをタップリつけて食すのだぞ」と得意げに仰ると、店主が「あっ、この鯉は品質管理が徹底された養殖ものですから大丈夫ですよ!ごゆっくりどうぞ」と言い、去ると、旦那様は少し恥ずかしそうになされていた。

 

 それから、私達はまるで何十年ぶりに会う親友の様に飲み明かした。旦那様が私の事を学生時代から気に掛けていた事、社会人になっても旦那様は人を使われて私の様子を逐一報告をされていた事、路頭に迷って、飲み屋でとぐろを巻いていた時に、横に座っていたのは偶然じゃ無い事、それらを酒の肴にして大いに盛り上がって、その頃には私達は単なる主従関係ではなくなっていた。数時間後・・すっかり出来上がった私達は、お互いを支えながら駐車場にいた。「さあ、屋敷に変えるぞ!」ぐでんぐでんに酔っ払った旦那様が私に仰ってきたので「旦那様!申し訳ありませんが酔っ払って運転ができないのであります!景色がグニャグニャしているのであります!」と私は敬礼する真似をして、おちゃらけながら言った。「がっはっはっ、それはそうだな!タクシーでも呼ぶか!」と豪快に笑いながら携帯電話を使いタクシーをお呼びになった。

 

 それから、数度、旦那様の酒飲みにお供した。旦那様は必ず上機嫌になられていて、私も楽しかった。時が経ち、定年退職当日、最後の送迎の車中で旦那様が、退職後も酒飲みに付き合えと、強引に私に約束をさせた。私はそれがとても嬉しかった。そして、白瀬家から去って半年経った。何故か一向に、旦那様からお誘いの連絡は来なかった。あれは単なる物の弾みで出た言葉で、旦那様にって意味のない言葉遊びだったのではないかと、自己完結しようとした矢先、私のもとに旦那様がお亡くなりになったという知らせが白瀬家からもたらされた。がんを患っていて、二年ぐらい闘病をしていたらしいのだが、私の前ではまるでその素振りをお見せになられなかった。私は白瀬家から親戚関係として参列を許されて、旦那様を見送った。

 

 私は悔やんでいた。長年仕えた主を少しでも疑った自分を罰したい気持ちだった。その後、旦那様の一周忌が終わると、どういう訳か、京香お嬢様から便せんに入ったお手紙が月に一度届くようになった。手紙の内容は、今日はお学友と遊園地に行った、美味しい物を食べた、取り留めない近況報告だったり、ある時はパンパンになった便せんが届き何事かと中を確かめると、私と旦那様が付いた嘘を大学の学友達に披露して恥をかいてしまい、原因の私と旦那様に対しての罵詈雑言で埋め尽くされた事も有った。月に一度は必ず届く、お嬢様からの便せんの手紙は、定年後の平坦な私の人生に彩りが与えられた。私も負けじと、お嬢様に近況報告するために、引きごもり気味だった私は、活動的になった。そして、それは何よりの生きがいになった。

 

 手紙のために日夜、あれやこれやと活動している日々を過ごしていた私は、旦那様の月命日にあの酒を飲もうと思い立った。早速、私は近所の酒屋に行った。酒屋に入ると独特の匂いがして、昔ながらのスタイルで店の屋号が入った前掛けをした店主が「いらっしゃい!」と挨拶をしてきた。私は店主に「竜姫と言う清酒はありますか?」と尋ねると「竜姫?T県の地酒ですよね?」と逆に私に質問を質問で返してきたので「いや・・私はよく知らないので・・」と私があいまいに答えると「ちょっと待ってください」と店主が言って、レジの近くにある棚に置かれた、分厚い本を取り出して調べ始めた。「えーと・・あった!これですか?」と店主が分厚い本を私に見せてきた。本には居酒屋で見た清酒の写真と共に竜姫と書かれていた。「あっ、これです!」と私が言うと「へー、マニアックなお酒を飲むんですね、あっ、お客さん!もしかしてここの出身の方でしたか?」と店主が私に尋ねた。

 

 「いや、多分違うと思いますけど・・因みにこのお酒は何処のお酒ですか?」と私は何気なく聞いてみた。「えっと、T県のK市だね、合併前だとO町のお酒だね」と店主が答えると「あっ!!」と私は大きな声で叫んだ。私の声にびっくりした店主は目を丸くして私を見ていた。「あっ・・すいません・・ありますか?」と私は謝罪しながら在庫確認を店主にした。「えっ、あっ・・在庫は無いのでお取り寄せになるけど大丈夫?」と動揺しながら店主は言うと「じゃあ、お取り寄せお願いします」と私は言って、店主が出した注文票に住所と名前、電話番号を書いて注文票の写しを受け取ると、足早に自宅に帰った。

 

 私は自宅の居間で寝ころびながら考え事をしていた。O町・・その地名に私は覚えがあった。私の父は転勤族で頻繁に転勤を繰り返していた。一つの場所に三か月以上留まる事はなかった。色々な地方を転々としていた先にO町もあった。ある時、数か月で去る予定だったのが父の勤め先がトラブルを起こして一年留まる事になった。私にとって同じ土地に長くいる事は自我が芽生えて初めての経験だった。そう、それがO町だった。O町は森と田んぼが広がるのどかな土地だった。当時、私は小学六年生でこの時期に転入するのは酷な話だった。周りは見知った者同士ばかりで私は案の定、浮いた。しかし、私と同じ時期に転入した者がいた、それが白瀬権蔵、旦那様だった。私達は浮いた者同士、直ぐに仲が良くなった。

 

 私達は田んぼや野原を駆け巡り、川遊びをしたり、お祭りに行ったり、本当によく遊んだ。そして、小学校の卒業と同時に父の転勤が再開して私達は別れた。何で・・忘れていたのだろう・・旦那様は学生運動が縁で私を気に掛けて寵愛(ちょうあい)したのではなかった。私と旦那様は学生運動よりはるか昔に縁で繋がっていて、旦那様は私を覚えていたのだ。今、思い返してみると・・そうだ、あそこの居酒屋のメニューはO町の郷土料理があった、鯉の刺身なんて、O町でよく食べた・・私を飲みに誘ったのは死期をお悟りになられた旦那様が私に気付いて欲しかったのだろう。私は何て馬鹿なんだろう・・ここ迄わかったのだから全てを知りたい。私は上体を起こして、携帯電話で京香お嬢様に連絡をした。事の経緯を説明してお嬢様がお知りになっている事を教え願えないかと、私が懇願すると、お嬢様は快く引き受けてくれた。

 

 お嬢様とは都内某所のシティホテルに付随している喫茶店で待ち合わせた。私が待ち合わせの場所に行くとお嬢様がすでにお待ちになっていた。お嬢様はすっかり大人の女性になられていて、相変わらずお美しい黒くて長い髪、桜色のリップ、ピンクのワンピースに白いニットカーディガンを羽織って、白いコーンヒールをしていた。「ご無沙汰をしております、京香お嬢様」と私が挨拶すると「こちらこそお久しぶりですね、佐藤さん」と返してきた。「早速、恐縮でございますが、旦那様の事をお教え願います」と私が言うと「もう、佐藤さん!せっかちですよ、まずは何かお頼みした方がよろしいのでは?」とお嬢様は私をたしなめた。私は適当にコーヒーを頼み、ウェイターがコーヒーを持ってくると私は再び「では、改めてお教え願います」と尋ねた。

 

 「わかりました、どうぞ、お聞きになさって下さい」とお嬢様が質問を受け付けられた。「まず、旦那様が私と子供のころに出会っていたのを思い出しました、しかし、たった一年を共に過ごした者に対してここ迄するのでしょうか?」と私は興奮気味でお尋ねした。「たった一年ではありませんわ、唯一の一年だったのですよ」とお嬢さまがお答えになられると「それは?どういう意味ですか?」と事の真相が知りたい私はお嬢様に続きを催促した。「白瀬家に生まれた子は白瀬家に相応しい家長としてなるべく、英才教育を受けるのです。それは、それは、厳しい教育で人格が歪む者がいたとか・・しかし、御爺様はが元来、お体が弱かったらしいのです。そこで医師の勧めによって、空気が綺麗なO町で療養するために単身、移り住んだのです」とお嬢様が語った。確かに・・子供の頃の旦那様は顔が青白くて何処か不健康な風貌だった。

 

 更に嬢様が口を開き「O町での生活は狂った英才教育からの解放された一年でしたの。御爺様はある時、ワタクシに言っておりました。あの一年が無かったら今の私は無かったと、佐藤さんがお引越しなされてから間もなく、御爺様の体調も回復して屋敷に戻らされて英才教育が始まりましたの。ですが、あなたの過ごした日々を胸に歯を食いしばって、乗り越えましたの。そして、大学生の時に学生運動であなた、佐藤さんと再会したのは運命だと言っておられましたよ」と真実が開示された。「私は・・旦那様がそのような事をお考えになっているを他所に自分の事だけを考えて生きてきました・・私は恥ずかしい・・旦那様が私をお雇い入れた時なんて、運が付いているって、はしゃいでるだけで、旦那様を思い出す事なんてしなかった」と私が懺悔の言葉を吐くと「お気になさらないで下さい、御爺様も悪いのですよ。素直に仰ればよっかったのですよ」とお嬢様は私をお慰めになった。

 

 「御爺様は家督を継ぐと、白瀬家の歪んだこれまでのしきたりを全て刷新なされましたの。お陰で、ワタクシや御父上はのびのびと生きる事が出来ましたの。佐藤さん、でもね、この事を知ったのは御爺様が亡くなった後に、顧問弁護士から渡された、遺言証書に記されていて、そこで、始めてワタクシや御父上が知ったのですよ。だから、ワタクシと佐藤は恩知らずの同じ穴の狢ですよ」とお嬢様は更にご自分を貶めてまで、私を庇った。お互いに、話したい事、聞きたい事が終わった私達は、レストランに移動して、お互いの近況の報告や、旦那様の思い出話をに花を咲かせながら、暫く会食を楽しんだ。食事の後、ホテルのエントランスホールで、お嬢様は自宅まで送ると言われたが、私は辞退して、お嬢様に謝辞を伝えて、お嬢様様を見送ると、シティホテルを後にした。何処をどう歩いたか分からないが、酩酊状態で自宅に着いたのは夜中だった。

 

 それから数日後・・私は右手には竜姫の一升瓶を持ち、左手には升(ます)を二つ持って、白瀬家の墓の前にいた。墓の脇にある墓標には真新しい、白瀬権蔵の名と没年が刻まれて、戒名は院号が付けられていた。流石、旦那様だなと思いながら、私は墓に升(ます)を二つ置き、それぞれになみなみと竜姫を注いだ。「旦那様、いや、権蔵君!君には感謝しかないよ・・もっと君と飲んで色々な話をしたかった・・」と私が呟くと、墓場の塔婆が風で揺れてカタカタと音を出し始めた。それは、まるで白瀬権蔵が「やっと気が付いたか!佐藤!」と言って高笑いしている感じがした。私は一気に升(ます)に入っている竜姫を煽り、そしてもう一つの升(ます)も一気に煽り、青い空を見上げながら泣いた。

 

 そして、2023年、今でも京香お嬢様、いや、京香奥様からの便せんに入ったお手紙は今でも来ている。最近の手紙には京香奥様とその御息女であられる玲香お嬢様のお二人が並んで撮られた中学校の入学のお写真が送付されていて、玲香お嬢様のお姿は、桜が咲き乱れるあの若き日の京香奥様のお姿に瓜二つだった。私の方は、この年になって、以前の様に出歩くことは出来なくなってしまったが、それでも、手紙を出すために杖を突きながら出歩いている。私の人生には財産や成功が無かったが白瀬家との思い出が沢山あった。それは代えがたい財産であり、金銀、財宝の輝きよりも高貴な輝きを発していて私の心を満たしていた。

 

 これで白瀬家の思い出話しは、いったん終わりにしようと思う・・私が縁側で桜を見ていると突如、風が吹き、桜が舞い散って、私の持っている升(ます)の中に入り込んで浮いていた。私はそれを一気に煽り飲むと、白瀬権蔵と言う男の高笑いを思い出して、私は思わず顔が緩んだ。

今回ご紹介する曲はMINO-Uさん作詞作曲、イラストを栗山さんによるもっていけないのにです。

 

 本曲は、鏡音レン・リンの誕生15周年を祝うために書き下ろされた曲で、お金、人望、名誉、人が欲するものは様々ありますが、それらは死んだら全て無に帰して、何も残らない。なら、人は何も残せないのか?愛があるじゃない!愛する人が幸せになれば、その愛は実りこの世に残るんだ!と力説する歌を鏡音レンさんが歌います。

 

 本曲の題名、もっていけないのには、人が人生で獲得した大方は、あの世に持って行けないというストレートな題名です。

 

 

 本曲はスピード感があって楽しい曲でしたよ!歌詞も中々、考えさせられる内容で、確かに死んだら何も残らないですよね・・

 

 本曲、もっていけないは、人の生の無常観と愛とうい人類の万人が持ち合わせている無限の可能性がある力の偉大さを説いて、聴き手に愛の重要性を伝える素晴らしい曲だと思いますので是非!本動画を視聴して聴いてみて下さい。

 

お借りしたMMD 

Tda様より

Tda初音ミクV4XVer1.00

ニコニコ大百科様より

鏡音レン